音楽と楽器とそして医療と


音楽と楽器とそして医療と


 本日はお忙しい中ご来場いただきましてありがとうございました。

 中学生の時以来、時々中断しながらもフルートを続けてまいりました。音楽を演奏するということは大変楽しいことですが、学校を出てからは、好きなだけではなかなか続けられない環境になってしまいました。この度、この会場がたまたま取れたこともあって、今日のような運びとなりました。

 皆様のお陰で、今日までこの数カ月間は充実した楽しい時間をより多く持つことができました。

 皆様にも本日のコンサートの中で何か楽しみを見つけて頂ければ幸いです。

 そもそも私にとりましては、“音楽を楽器で演奏する”ということで得られたものが、私が何かに取り組むときの大切なモデルになっています。自分を一人の例として、また一緒に育ってきた何人かの音楽仲間もその例としてです。

 技術を習得するにはどうしたらよいのか、そもそもどんな技術が必要なのか、才能と訓練(=努力?)、知識と才能、有効な訓練とあまり役に立たない訓練、技術は所詮道具ではないのか、技術を使っていったい何をやろうというのか、等々たくさんの考える材料が与えられました。

 技術を習得する過程は、丁度、荷物を持って坂道を登って行くようなモデルが良くあっているのではないでしょうか。登るには大変な労力が必要ですし、現状維持だけでもたいへんです。力を抜くとずるずると下がってしまいます。楽器をやることを、楽しみではなく精神的な鍛錬の場と考える人たちは、坂道をまっすぐ登っていくよう叱咤激励するようです。長い道のりを休まず登り続けられるとしたら、その人は大変な精神力のある人ですし、簡単に登ってしまうようでしたらよっぽど才能のある人でしょう。楽器はよっぽど精神力のある人か、よっぽど才能のある人しかうまくならないということになってしまいそうです。

 でも坂道も登りようです。まっすぐではなく、斜めに登るほうが楽そうです。その代わり左右に何度も往復することになります。山をモデルに使えば、まっすぐ登るよりぐるぐる回りながら、螺旋階段を上がるように頂上を目指すということです。

 ぐるぐる回りながら登ることで、頂上に到達しなくてもある程度全体を見渡すことができます。道は一つではありませんので、ついでに足の向くままに道草でもしながら登っていけば楽しいこともたくさんありそうです。一周して気が付いたときは前よりも高い位置に立っています。長く続けられて3回ぐらい回れると、結構見晴らしの良い所まで来てしまうようです。

 まっすぐ登り切ってしまった人は速く登れたかも知れませんが、見てこなかった物もたくさんありそうです。それに頂上だと思っていたものも、頂上ではないかも知れません。

 山登りも、楽しくなったり、辛いばかりになったりです。

 ついでに、この坂道は所々に踊り場があるような坂道のようです。踊り場まで上がれないときは、力を抜くとずるずると一番下まで落ちてしまいます。集中的な訓練である程度の高さまで登り、ある程度の期間維持できているとこの踊り場ができるようで、この踊り場ができると、力を抜いても簡単には一番下までは落ちていかないようです。この踊り場が次のステップへのベースキャンプの場所となります。

 技術の習得には、集中的な訓練とある程度の期間という組み合わせが必要なようです。毎回々々ゼロからのスタートでは大変です。

 完成度の高い技術はそれ自体美しいもので、その優劣も大変分かり易く、楽器を全くやらない人でも比較して説明されればすぐに分かります。技術の向上はそれだけで大きな喜びです。ですから、折角技術の練習をするなら、充実感を持って楽しみながらやりたいものです。“これができないとだめ、あれができないとだめ”ではなく、“これができるともっと良くなる、あれができるともっと良くなる”と。

 でも技術は所詮何かをするための道具です。高い技術には必ず優れた内容が付随しているというものではないようですし、高い内容を持った人は必ず高い技術を持っているということもないようです。

 しかし、中身の優劣は大変分かりにくく、言葉にもなりにくく、画一的な序列も付けられません。でも確かに中身の優れているものとそうでないものはあるように思えます。それは“持っているお金や物の量”と“心の豊かさや幸福の程度”との関係に似ているようにも感じます。

 技術的に極めて未熟な始めの頃は、高い技術があるというだけで、その人の言うことやることが全て正しいような気がする時期もあります。楽器をやる前はその中身に心を打たれ感動したはずなのですが、楽器を始めたとたん技術にばかり目を奪われるようになります。技術が高いのだから中身も良いに決まっていると。“技術の程度”イコール“中身の程度”と。その位、技術というハードルが高いということではありますが。

 この時期はかえって、楽器をやらない全くの素人の方が中身が良く見えたりします。“有名だか何だか知らないがつまらない演奏だなあ”

 “先ず高い技術を身につけなさい。そうすれば、そのうちどんな曲でも演奏できるようになります。”さんざん言われてきました。でもずっとアマチュアで通そうとする人、自分の心の中から湧き出てくる素朴な疑問を大切にする人は、これは止めた方がいいです。数年は持つかも知れませんが、長続きしません。

 それに技術だけでは、中身を伴った良い演奏はできません。中身は中身で始めからいつも求めていかなければ身に付きません。

 技術的に完成度が高いというだけの演奏は、自分にとっては大変空しくあまり価値の無いものに感じます。

 技術的には劣っていても、レストランの料理より美味しい家庭料理はいくらでもあります。

 “手術はうまくいったが患者は死んだ” 高い技術を評価する人、患者が死んだことを重視する人.....。

 技術の完成が中身を追い求めるスタートラインではないと思います。

 かつてローマ法王が来日して日本語で演説をしたことがあります。いかにもカタコトの発音でしたが、人の心に直接訴えかける大変説得力のあるものでした。発音の正確さしか聞こえない、その中身を受けとめられない人たちは、あの言葉の発音がどうの、この言葉のイントネーションがどうのと言うのかも知れません。人の欠点を見つけることで、自分の方が偉くなったような気でもするのでしょうか。

 訴えたい中身とそれを表現するための技術の関係。考えさせられてしまいます。

 できるだけ技術的にミスが無いようにという演奏と、できるだけ中身を追い求めようとする演奏では目指すものが違うということでしょう。

 医療の世界も似たような世界だと感じているのですが、いかがでしょうか。

 “そんなこと言っても、歯の場合は何と言っても技術だよ” 

 本当でしょうか?

 私は、結果として現れているのは技術そのものではなく、技術を使って表現されたその歯科医の中身だと考えています。その歯科医の中身が、つまりその歯科医の人間性や価値観、医療に対する考え方、取り組む姿勢、知識の量と質、等々が、技術を使って表現されているのです。その歯科医は、自分が大切だと考えているものをより良く表現しようとして、技術を選び・習得し、歯科医という役を通して、そういう風に表現したのです。

 星野富弘が口にサインペンをくわえて書いた初めての字というのがあります。この時は、母親が、スケッチブックを傍らに立てて支えていたそうです。体育の教師をしている時に鉄棒から落ちて脊椎を損傷し、首から上だけしか動かせなくなりました。手も足も動かせない、寝返りも打てない、一人では食事もとれません。でも、時とともに何かをやりたいと言う思いが湧き出てきて、一つの形となって現われました。そして描く技術が上達し、人の心を打つ詩と絵を、口に筆をくわえて現在も描き続けています。

 

 “この絵だと1枚いくら位だね、1カ月何枚書けるとして、月収なんてこんなもんだろう。”

 値踏みができる値段が分かるということと、そのものの価値を感じることができるということは別の事です。

 医療でも、知識や技術があり、それなりに適切な診断や処置ができるということと、自分のやっていることの価値や意味を感じることができるというのは別の事です。

 “クラシック音楽なんて制約ばかりじゃないですか。どうせただ楽譜どおりやればいいんでしょ。そうしたら違いは技術だけじゃないですか。” 

 一生という限られた時間の中で、何を大切にして生きて行こうとするのでしょうか、何を感じ何をやって死んで行くのでしょうか。大きな制約の中での技術と中身と、制約があっても現れてくる中身もあれば、制約があるからこそ際立ってくる中身もあるのです。

 私は、技術は後で良いと思っています。先ず中身を追い求め、その実現のために、それに必要な技術を得ようと、楽しみながら充実感を持ちながら自らを訓練し、それで行き着いた所までで良いと思っています。人より速くだの、人より高くだの考えなくて良いと思っています。

 螺旋階段は延々と続いています。頂上は遥か雲の上です。

 どこまで行けることやら。

1996年3月20日 第3回ファミリー・コンサートを開催するにあたって  松本 理  


 <フルート関連の略歴>

松本理:1954年生まれ、15歳の時よりフルートを始める、林りり子・旭孝・北村洋子・宮本明恭の各氏に師事。歯科医師。